〜地球から脱出するまでの日々の記録〜

2014/10/14

独学でカメラを撮り続けて気付いたこと後編



表現は自分の周りに変化を起こす。





写真を撮り続けているうちに
世界に変化が起きていく。

まずは自分。
人の視線が大の苦手。
特に女性からの視線は一種のコンプレックスに近い。
それが写真を撮っている間は、街の人ごみも、被写体の強烈な視線も、
まったく気にならなくなった。






今見ているこの瞬間をいかにつかみきれるか。
余計なことを考えずに、
ただそれだけに集中している。
没入、俗に言うゾーンに入る感覚。
その過程を繰り返している内に視線自体に慣れていった。
というよりも、今まで無作為にほとばしっていたアンテナが
カメラを持つことによって一つに凝縮されたような感覚。

感覚を制御できる今となってはコンプレックスの反動で、
多くの女性の写真を撮るようになった。




コンプレックスは、調和を求められる学生時代、家庭において
周りの環境からはみ出した際のマイナスイメージによって
形成されやすい。

はみ出すということは他の人にはない過剰のエネルギーを
持っているわけで、上手く引き出してあげることが大切。
(そんなことは当時は思うわけもなく。)

とにもかくにも、
自分は写真という表現をしているうちに、
苦手であった(特に女性の)視線に
こちらから「撮らせてください(開眼)」と言って
真っ向から目を合わせるようになった。


二つ目は相手。
写真は真実を写す。
そして偽りを嫌う。

作られているのものは
ファインダー越しに見えてきてしまう。

こう見せたいという意図などが物質的なものの場合は
撮影中にどんどん排除していく。



それが表情の場合はシャッターを切りながら
一枚一枚表情を脱がしていく。



その先にたどり着いた写真は、
その人の裸の姿。
相手にその姿の写真を見せるとじいっと見入る。




「こっちが本当の自分なんだと思う。」

その姿を共有する前と後では表情が一気に変わる。

撮影後の会話も弾む。

海の深いところまで潜って一緒に何かを見る。
陸に上がって一気に話し始める。それに似ている。

ということで変わるもの3つ目、自分と相手の間。

以上撮影してきて気づきのまとめ。


どうも表現はいろんなものと繋がる能力があるみたい。

撮影した写真をもとに会話するのは、
自分の描いた絵をもとに会話する
アートセラピーに似ている。

最近ある人に「あなたが撮っている写真てなんか優しいよね。」
と言われ、いつのまにか自分がそういう写真のチョイスや
編集をしていることに気付いた。
自分は、無意識に人に優しさや偽りのないものを求めていた。
表現したものには自分のかけらが散らばっている。
それを集めて遠目から見ることによって自分が見えてくる。

表現をすることによる変化は、
自分という人間を知る
というところが一番大きい。

情報過多により自分を見失いがちな現代において
自分なりの表現手段を持つことをおすすめする。

周りに合わせるための依存的表現ではなく、
自分の内側を満たすための表現。
結果的にはその表現に共鳴した誰かとつながることになる。

今までに経験したことのない感覚を伴って。











これまでに撮った写真は「 nude. 」というアルバムにまとめている。
名前の通り、その人のそのまんま、心の裸の姿を撮るのがコンセプト。

脱がしているようで、自分も撮りながら心の服を脱いでいたのだった。